「神は死んだ」という言葉がピックアップされ、ニーチェはまるで唯物論者のように語られる風潮があります。
ニーチェの哲学自体はシュタイナーも一部参考にしていたり、ニーチェそのものが釈迦の哲学を参考にしていたりするわけで、やはり釈迦の偉大さというのが、どこの哲学を追っていても感じられます。
釈迦は空を説いた。
これはアートマンを肯定せず、アナートマンを肯定したわけです。
この記事を担当:音楽家 / 朝比奈幸太郎
1986年生まれ
音楽大学で民族音楽を研究。
卒業後ピアニストとして活動。
インプロビゼーション哲学の研究のため北欧スウェーデンへ。
ドイツケルンにて民族音楽研究家のAchim Tangと共同作品を制作しリリース。
ドイツでStephan Desire、日本で金田式DC録音の五島 昭彦氏から音響学を学ぶ。
録音エンジニアとして独立し、芸術工房Pinocoaを結成。
オーストリア、アルゼンチンなど国内外の様々なアーティストをプロデュース。
株式会社ジオセンスの小林一英氏よりC言語、村上アーカイブスの村上浩治氏より、写真と映像を学ぶ。
2023年からヒーリング音響を研究するCuranz Soundsを立ち上げる。
世界中に愛と調和の周波数を届けるため、癒しの音をCuranz Soundsにて発信中。
空は正しいのか?
じゃあ空は正しい概念なのか?
この世界の真実はどこにあるのか?
考察してみましょう。
★アートマンには解脱がある▶︎永遠ではない
★アナートマンは解脱がなく▶︎永遠である
まずはこの2点があるかと思います。
アナートマンにも解脱はあるじゃないか?
いえ、筆者は古代インド哲学における解脱と釈迦の説いた涅槃は区別するべきであると考えています。
解脱は現象で、涅槃は状態です。
現象とは、感覚や観察を通じて認識される出来事や出来事のことで、主に動的な側面を強調します。
現象は時間とともに変化するものであり、何かが発生するプロセスや出来事そのものを指します。
状態とは、特定の時間における対象の静的な性質や条件を指します。
状態は一定の期間続くものであり、物事がどのような状況にあるかを示します。
物質が先か、情報が先か
魂は永遠である場合▶︎アナートマンつまり空が正しい概念(涅槃は状態なので)
→情報(五蘊)が色(物質)を作る
五蘊(ごうん)とは、仏教において存在を構成する五つの要素を指します。これらは以下の通りです:
- 色(しき): 物質的な形や身体。五感によって知覚される物質的な世界を含む。
- 受(じゅ): 感覚や感受。喜びや悲しみ、快楽や苦痛など、感覚を通じて経験される感情。
- 想(そう): 想念や認識。対象を認識し、名前を付ける心の働き。
- 行(ぎょう): 意志や行動。心の動きや意志、習慣的な行動パターン。
- 識(しき): 意識や知覚。識別し、認識する心の働き。
魂は永遠ではない場合▶︎アートマンつまり色が正しい概念(現象として解脱があるので)
→色(物質)から情報(五蘊)を抜き出す
とはいえますよね。
当たり前のように見えて、どちらの視点に立つかで色、つまり物質世界におけるこの世界の在り方は大きく変わります。
とすれば別次元の世界はアナートマンの永続性には存在するが、アートマンの永続性の中には存在しない可能性が発生するのではないか?
空の概念は未来を創造する
釈迦の説いた空の概念、無我の概念は情報から物質(世界)を創造するので未来を創り出すことができます。
ここが、「あれ、釈迦って量子物理知ってたよね」と言われる所以です。
これまでの古代インド哲学における自我の永続性と解脱、つまり物質から情報を抽出する概念であると、過去しか創造できませんよね。
あなたがこの物理世界に生きていて果たしてどちらがこの世界の真理であると感じますか?
ニーチェは神を消したのか?
神は死んだというインパクトのある言葉を残したニーチェですがその本質はどこにあるのでしょうか?
そこはやはりキリスト教がベースになっています。
「神は死んだ」という言葉は、キリスト教的な価値観や道徳がもはや人々の生活において中心的な役割を果たさなくなったことを指摘しています。
これは唯一絶対神の存在に対する否定を表明しているわけです。
当時は古典物理学から大きく飛躍して、量子物理学的な視点に人類が移行していた時代。
ニーチェは、神の存在を含む絶対的な確定性の崩壊を主張しているのと同様に、量子物理学も確定的な因果関係を否定し、確率論的な視点を導入しました。
これはボーアやハイゼンベルクの不確定性原理と共通の理解として考えていいでしょう。
もちろんニーチェはより哲学的かつ宗教的な側面で神(つまり絶対的な何かの価値観)を否定しているわけで、突き詰めると自我、アートマンの否定です。
ここが、ニーチェは釈迦の影響をかなり受けていると言われるポイントですし、基本的に釈迦は無我思想であり、絶対神の存在を肯定していませんので、同じ哲学であると言えます。
これは、アインシュタインの神はサイを振らないという格言の反対をいくものです。
どちらが正しいのでしょうか?
後ほど考察するとして、まずは現代の量子物理学的な業界において、どちらが広く指示されているのか?
調べてみましょう。(量子物理学自体が常識を覆す概念であったこともあり、多数派が正解であると定義するのは早計です)
不確定性原理の存在
現代の物理学においては、ボーアやハイゼンベルクの不確定性原理がより広く支持されています。
量子力学の実験結果は、不確定性原理や確率論的な解釈を強く支持しています。
例えば、量子エンタングルメントや波動関数の崩壊といった現象は、不確定性原理に基づく説明が最も適切とされています (Physics Stack Exchange) (Philosophy Stack Exchange) (Physics Stack Exchange) (PhysForum)。
一方、アインシュタインの決定論的な見解も一部の理論物理学者によって支持されており、ボーム力学などの決定論的解釈が存在しますが、これらは主流の解釈ではありません (PhysForum)。
つまり現代では唯一絶対の神と自我、つまりアートマンは論理的に否定される傾向にあるようです。
総合して考える時に、釈迦がこの世界に革命的に説いてきた真理が、歴史上の統治統合の中で人間にとって作られた唯一絶対神の存在を修正しようとした一人。
と認識することができます。
それは実はキリストそのものもその一人だったのかもしれません。
イエスが説いた愛の教えはこの世界の真理の部分であり、崇拝そのものの教えを説いたわけではありませんし、実際にユダの福音書でも、弟子たちが祈る姿を笑うという描写があります。
イエスそのものはただ儀式的に祈るという状態に対して否定しています。
これは当時のファリサイ派のユダヤ人たちに対しても同じことであり、イエスの教えは愛のエネルギーはこの世界の真理であることと、信じることでこの量子物理的世界でどんな現象も思いのままに起こせるという内容だったはずです。
それが時の権力者や政権によって、まるでイエスが書いたかのように書き換えられ続けて現在の唯一絶対神の存在と神のジャッジという概念を作り出した、それに対してニーチェは東洋哲学的思想を持って、絶対のアートマンを否定したのではないか?
そのように筆者は考えます。
無我と空即の危険思想
釈迦はその複雑な哲学から様々な解釈が生まれやすく、いろいろな思想と入り混じって危険な思想になったりします。
世の中のカルト宗教なども釈迦の言葉をうまく利用して危険思想を生み出したりするわけです。
一つ危険思想としてあるのが、行きすぎた空思想。
これは平成で世界最大のテロを起こしたカルト宗教団体の思想にあり、ポアという思想があります。
この世はどうせ情報なんだから。というもの。
どうせ幻想なんだから何してもいいや。
という思想です。
一方で、自我+色即的思想の場合は何が危険か?
それが一つとして行きすぎた差別主義にあります。
前世というものです。
前世療法などもあり、筆者はこの現象に対して確信を持っているので、前世があるのは間違いありません。
メカニズムとしてはもちろん情報にアクセスするわけなんですが、この前世というものに対して例えば偉人が前世で現れた場合、「今世も素晴らしい人」というレッテルを貼る行為です。
これは前世をうまく利用した宗教団体に多くみられます。
また、自我による輪廻転生を認めてしまうことによって、自◯を助長することにつながるという事件があるようです。
10代の若い子供たちが古代インド哲学を上澄だけ学ぶことで起こるエラーであると思われます。
両者どちらも行きすぎると大変危険なのです。
そこで大事になってくるのが中道です。
釈迦の大切な教えの一つです。
どちらにも偏らないように是非真ん中を歩いてください。
シーソーは真ん中がもっとも安定しています。
情報から現実を創る空、これが行きすぎるとポア、なんでもいいじゃん!になり、危険な行動や堕落に繋がることもあります。
現実から情報を取り出す色、これが行きすぎると、人生のリセットを助長させてしまい、前世による差別主義が発生します。
哲学を正しく学び、豊かな人生を送りましょう。