朝、目が覚めたとき。
電車に揺られているとき。
夜、布団のなかで天井を見つめているとき。
ふと、胸の奥から湧いてくる問いがあります。
「私って、なんのために生きているんだろう」
誰もが一度は訪れる、この問い。
答えが見つからず、むなしさが広がっていくのを感じたことはありませんか。
SNSを開けば、誰かの「意味のある人生」がきらきらと並んでいます。
本屋に行けば、「自分らしく生きる」「使命を見つける」という言葉の並ぶ棚が目に入る。
でも、そのどれもがあなたの胸にはすとんと落ちてこない。
二千五百年以上前、この深い問いに立ち向かった人がいました。
釈迦です。
ただ、釈迦が出した答えは、多くの人が期待するものとは少しちがいました。
釈迦は「生きる意味とはこうだ」とは言わなかったのです。
代わりに、こう説き始めました。
人生には苦がある。誕生も、老いも、病も、死も。好きになれないものと共にいることも、愛するものと別れることも、望みが叶わないことも。これらはみな苦である。 そして、この苦には原因がある。それは渇き、執着である。 しかし、その苦を終わらせることはできる。渇きを手放し、それを消え去らせることによって。 そして、苦を終わらせるための道がある。それが八つの正しい歩みからなる道である。
出典: 釈迦『相応部』第56集第11経「初転法輪経」(Dhammacakkappavattana Sutta, SN 56.11)より
これが、釈迦が生涯で初めて説いた教えです。
いわゆる「四つの聖なる真実」。
苦と、その原因と、その終わりと、その道。
ここで「何を暗いことを」と思われたかもしれません。
でも、ここにこそ、あの「生きる意味」の問いへの、思いがけない鍵が隠れています。
なぜなら、釈迦は「苦がある」で終わらなかったからです。
「苦は終わらせることができる」と言い切り、そのための具体的な道まで示しました。
つまり、釈迦が示した「人生の本当の目的」とは、頭でつかむような抽象的な「意味」を知ることではなかった。
いま自分が感じている苦しみをしっかりと見つめ、その原因を理解し、そこから自由になる道を歩むこと。
それこそが、釈迦の見出した答えだったのです。
「生きる意味がわからない」という問いそのものが、実は一つの「苦」なのかもしれません。
わからないことに胸を痛め、答えを探してさまよい、見つからないことにまた傷つく。
このぐるぐると回る苦しみの正体を、釈迦は「渇愛」と呼びました。
「こうあらねばならない」「これを手に入れねばならない」という渇きこそが、私たちを苦しめるのだと。
だとしたら、「生きる意味」を探すのを、いったんそっと置いてみませんか。
代わりに、今日のこの一瞬、自分の内側で何が感じられているかに、ただ気づいてみる。
胸のつかえ、肩の力み、息の浅さ。
それらに「ああ、いま苦しんでいるな」と、やさしく名前をつけてみる。
それだけで十分です。
それこそが、二千五百年の智慧が教える、本当の一歩目だからです。
意味は、頭で「見つける」ものではないのかもしれません。
足もとの一歩一歩をていねいに歩むうちに、ふと、後ろからついてきているのに気づく。
そんなものなのかもしれません。
今日は、答えを探すのを、少し休んでみませんか。
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