「ちゃんとできたか」と、いつも自分に問いかけてしまう。
誰にも気づかれないような小さなミスが、何日も頭のなかをぐるぐる回る。
完璧であろうとするほど、心はかえって重くなっていく。
そんな経験はありませんか。
完璧を求めることは、一見すると美しい姿勢に見えます。
けれど、どこまでいっても「まだ足りない」と感じてしまうのなら、それは私たちを支える力ではなく、すり減らす力に変わってしまっているのかもしれません。
二千五百年以上前、釈迦はこのような苦しみの根っこを見抜き、両極端から離れた「中道(ちゅうどう)」という智慧を説きました。
釈迦が悟りを開いたあと、最初に行った説法が「初転法輪(しょてんぽうりん)」と呼ばれる教えです。
そのなかで釈迦は、出家した修行者にとって近づくべきではない二つの極端があると語りました。
一つは快楽にふけること。
もう一つは自分を痛めつけるような苦行です。
そして、この両方から離れた「中道」こそが、智慧と平安へ導く道だと説いたのです。
比丘たちよ、家を出て修行する者は、この二つの極端に近づいてはならない。これら二つの極端を離れて、如来は中道を悟った。それは眼を生じ、知を生じ、おだやかさに、さとりに、涅槃に導くものである。
出典: 『転法輪経(Dhammacakkappavattana Sutta)』相応部 56.11(Piya Tan 英訳を参考に意訳)
ここで大切なのは、釈迦が「ほどほどに」と言ったのではない、ということです。
中道は「手抜き」ではなく、両方の極端に振れずに、いまの自分を正しく見つめることから始まります。
完璧主義というのは、言い換えるなら「自分への厳しすぎる苦行」かもしれません。
もっと頑張らなければ、もっと良くならなければ、と自分を追い込むのは、釈迦が戒めた「自己を痛めつける極端」に通じるものがあります。
そしてもうひとつ、『法句経(ダンマパダ)』花の章にある言葉が、このテーマにやさしい光を当ててくれます。
他人の過ちを探してはならない。他人がしたこと、しなかったことを見てはならない。ただ、自分のしたこと、しなかったことだけを見よ。
出典: 『法句経(Dhammapada)』第50偈 花の章(Buddharakkhita 英訳を参考に意訳)
この言葉は、ふつう「人の欠点を探すな」という意味で読まれます。
でも視点を少しだけ内側に向けてみると、「自分の欠点ばかりを探しすぎてもいけない」というふうにも響いてきませんか。
自分の「できなかったこと」だけを見つめ続けるのは、他人の粗探しと同じように、心をすり減らす行為です。
私たちにできるのは、自分の行いをあるがままに見つめること。
できたことも、できなかったことも、どちらも自分の一部として、ただ知ること。
それが中道の第一歩です。
今日、もし「また完璧にできなかった」と自分を責めそうになったら、こう問いかけてみてください。
「いま私が自分に向けているこの厳しさは、中道からどれだけ離れているだろう」
責める代わりに、すこしだけ距離をとって、自分のなかの「完璧でありたい」という気持ちそのものを、ただ眺めてみる。
否定しなくていい。
それに気づいた、その瞬間が、すでに道の真ん中に立っている証拠です。
私たちはみな、ほどけた糸を抱えながら生きています。
それでいいのだと、二千五百年の智慧はやさしくうなずいてくれます。
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今日のあなたにそっと寄り添うヒントがほしいときは、数秘で今日のメッセージをのぞいてみませんか。