誰かにされたこと、言われたことを、何年も何十年も、心のなかでくり返し思い出しては胸が熱くなる。
そんな経験はありませんか。
「あの人は許せない」。
そう思うことで、傷つけられた自分の正しさを確かめているような気がする。
相手への怒りを手放せないのは、手放してしまったら自分の痛みまで無かったことにされてしまう気がするから。
でも、ふと気づくのです。
相手はもうそのことを忘れて、平然と毎日を過ごしているかもしれない。
一方で、あなたの心は許せない思いにぎゅっと縛られたまま。
自由になりたいのに、その縛りをほどくのがこわい。
二千五百年以上前、釈迦はこの心のしくみを正確に見抜いていました。
『法句経(ダンマパダ)』の冒頭近くに、こんな言葉があります。
「かれは、わたしを罵った。かれは、わたしを害した。かれは、わたしにうち勝った。かれは、わたしから奪った」という思いをいだく人には、怨みが息むことがない。 「かれは、わたしを罵った。かれは、わたしを害した。かれは、わたしにうち勝った。かれは、わたしから奪った」という思いをいだかない人には、怨みが息む。
出典: 『法句経(ダンマパダ)』双品(Yamakavagga)第3〜4偈
「怨みが息む」とは、心のなかの怒りの炎がふっと消えること。
その炎を燃やし続けるのは、「あの人は許せない」とくり返し思い出す、自分自身の心なのです。
釈迦はさらに、こんな原理まで示しています。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
出典: 『法句経(ダンマパダ)』双品(Yamakavagga)第5偈
「怨みを捨てる」と聞くと、「相手を許さなければいけない」と身構えてしまうかもしれません。
でも、ここで釈迦が言っているのは少しちがいます。
火を火で消せないように、怨みを怨みで終わらせることはできません。
だからこそ、怨みの連鎖を断ち切るには、自分から手を離すしかない。
それは相手のためではなく、あなたの心を自由にするためなのです。
では、どうすれば怨みを手放せるのでしょう。
釈迦はその答えを「慈悲(じひ)」と呼びました。
慈悲と聞くと、大げさな愛や、がまんして差し出す許しを思い浮かべるかもしれません。
でも、もともとの言葉が指すのは、もっとずっと素朴な心の動きです。
「この人にも、その人なりの悩みや傷や事情があるのだろうな」と、相手をひとりの人間としてそのまま認めるまなざし。
相手を肯定することでも、されたことを忘れることでもありません。
ただ、「怨みを持ち続けることがいちばん苦しいのは自分だ」と気づいたとき、そっと生まれる心の余白のようなものです。
そうは言っても、「あの人に慈悲を」と急に思うのはむずかしい。
だからこそ、まずは自分自身に向けることから始めてみてください。
今夜、布団のなかで目を閉じて、自分の胸にそっと手を当ててみる。
「わたしの心が、おだやかでありますように」と、声に出さなくてもいいので、心のなかでつぶやいてみる。
次に、あなたにとって大切な誰かを思い浮かべて、同じ言葉を送る。
そして、もし今日のあなたに少しだけ余裕があるなら、「許せない」と思っている相手にも、怖がらなくて大丈夫な範囲で、そっとその言葉を向けてみる。
できなくてもかまいません。
無理に許そうとしなくても大丈夫です。
ただ、「怨みを持ち続けることは相手ではなく自分を縛るだけだ」と知ること。
それだけで、今日のあなたの心はほんの少し軽くなるはずです。
あなたが自由になっていいのです。
許せない思いから解き放たれて、大きく深呼吸ができる心のスペースを、そっと自分のために空けてあげてください。
日々の怒りに向きあうヒントは、「人間関係のイライラが止まらないとき、怒りを手放す慈悲の教え」でもお伝えしています。あわせてどうぞ。