「私はこういう人間だから」「私にはこれが足りない」「あの人に私はどう見られているんだろう」。
こんなふうに、「自分」という存在について考えすぎて、胸がぎゅっとなった経験はありませんか。
私たちはたいてい、「自分」という確かな核のようなものがあると思って生きています。
名前も、性格も、過去も、体も、すべてが「私」というひとまとまりを形づくっている。
だからこそ、その「私」が傷ついたり、認められなかったり、思うようにいかなかったりすると、深く苦しんでしまいます。
でも、二千五百年以上前に釈迦が説いた「無我」という智慧は、その「自分」のとらえ方そのものを、そっと解きほぐすものでした。
釈迦は「自分をなくしなさい」と言ったのではありません。
「自分」だと思っていたものは、じつはあなたが思うよりずっとやわらかい、ということを教えたのです。
「私」はどこにあるのか、釈迦の問いかけ
釈迦は、ベナレス郊外の鹿野苑で五人の修行者に、こんな問いかけをしました。
体は「私」でしょうか、と。
もし体がほんとうに「私」なら、私たちはそれを自由に操れるはずです。
「老化しないで」「病気にならないで」と思いどおりにできるはず。
けれど、できない。
だから体は「私」ではない。
同じように、感覚も、知覚も、心の動きも、意識すらも、「私」ではない。
これが「無我」の教えです。
比丘たちよ、色は無我である。もし色が我であるならば、この色は病をもたらすことなく、色について「私の色はこのようであれ、私の色はこのようであってはならない」と意のままになるはずである。しかし比丘たちよ、色は無我であるから、色は病をもたらし、色について「私の色はこのようであれ、私の色はこのようであってはならない」と意のままにはならない。
出典: 『相応部』22経59「無我相経」(SN 22.59)、Access to Insight 所収
この論理はとても明快です。
「私のもの」であれば、思いどおりにできるはず。
でも、私たちの体も、感情も、考えも、思いどおりにはなりません。
それはつまり、それらが「私」ではない、ということ。
ここで釈迦が伝えたかったのは、「あなたは思っているより、ずっと自由でいい」というやさしい知らせだったのかもしれません。
無我は「私がいなくなる」ことではない
誤解されやすいのですが、無我の教えは「あなたには自我があるからそれを消しなさい」という否定の言葉ではありません。
むしろ、「自我だと思って固く握りしめていたものは、もともとそんなに固いものではなかった」という、解放の知らせです。
私たちは日々、「私」という物語を無意識に編み続けています。
「私は頑張り屋だ」「私は不器用だ」「私は人に好かれなければならない」。
それはまるで一冊の小説の主人公を演じているようなもの。
その主人公が傷つけば、私たちも傷つく。
評価が下がれば、自分という存在そのものが否定されたように感じる。
でも、その主人公は「作られたもの」です。体の感覚も、今この瞬間の気持ちも、頭に浮かぶ考えも、みんな移ろっていく。どれも「これが私」と名指した瞬間に、もう少しずつ変わっている。縁起の視点からいえば、すべては関係のなかに生まれ、支え合い、やがてほどけていく。あなたという存在もまた、そのやわらかなつながりのただなかにあります。関連する視点は「孤独がこわいあなたへ、つながりを見つける「縁起」の視点」もご覧ください。
無我の智慧は、その移ろいを「困ったこと」ではなく「あたりまえのこと」として、そっと受けとめるまなざしです。
小さな実践、「私」をやわらかくほどく
では、この智慧を日々のなかでどのように活かせるでしょうか。
特別な修行は必要ありません。
今日からできる、やさしい実践を三つご紹介します。
ひとつめ。
「これが私」という言葉を、一度、手のひらに乗せてみる。 何かに傷ついたとき、落ち込んだとき、「私はダメだ」「私は嫌われた」という言葉が浮かんだら、それを頭のなかでそっと手のひらに乗せてみてください。
そして「この気持ちは、いまここにあるけれど、これが私のすべてではない」とつぶやいてみます。
握りしめていたものを、ほんの少しだけ、自分から離して眺める。
それだけで、「私」の輪郭が少しやわらぎます。
ふたつめ。
「変わったこと」を一日の終わりに見つける。 今日の自分は、朝と夜で何が変わったでしょうか。
気分、体の感じ、誰かへの印象。
小さな変化を探すだけで「変わらない私」という思い込みが、ゆるやかにほどけていきます。
みっつめ。
「誰かの靴を履いて」世界を見てみる。 カフェで向かいに座った人、すれ違った自転車の人、コンビニの店員さん。
ほんの一瞬でいいので、「この人はいま、どんな景色を見ているんだろう」と想像してみてください。
「私」の視点から少しだけ出る練習です。
無我とは、自分をなくすことではなく、視点を自由に動かせること。
その小さな自由を、日々のなかで味わってみてください。
やわらかな存在へ
「自分」という苦しみは、私たちが「自分」を固く握りしめすぎるところから始まります。
「私はこうでなければ」「私にはこれがなければ」。
そんなふうに、自分を名詞のように決めてしまうから、その枠からはみ出すたびに苦しくなる。
でも釈迦が教えてくれたのは、「あなたにはもともと、そんなに固い枠なんてなかった」ということ。無我の智慧は、自分を消すことではなく、自分を動詞のように感じ直すこと。変化し、つながり、ほどけ、また結ばれる。そんな、川の流れのような存在のかたちです。「執着を手放せないあなたへ」でも触れたように、手放すとは「失う」ことではなく、握りしめていた手をひらいて、風を感じることなのかもしれません。
今夜、眠る前に、ほんの少しでいいので、「私は」で始まる言葉を、そっと脇に置いてみてください。
そこに残るやわらかな感覚が、あなたのほんとうの姿です。