歩いているときも、スマートフォンをのぞいている。
食べているときも、明日の予定で頭がいっぱい。
からだは「いま、ここ」にあるのに、心はいつも別の場所をさまよっている。
そんな感覚を、あなたもおぼえたことはありませんか。
二千五百年以上前、釈迦はこの「心がここにない」という、人間のごく自然なありようを見抜き、その処方を説きました。
それが『念処経』(マッジマ・ニカーヤ第10経)に収められた、「正知」と「姿勢の気づき」の教えです。
歩くとき、心は歩いているか
釈迦は修行者たちにこう教えました。
歩いているときは「歩いている」と知り、立っているときは「立っている」と知り、座っているときは「座っている」と知る。
ただそれだけのことを、くり返し説いたのです。
簡単そうに聞こえますが、実際にやってみると、ほとんどの人は数歩も歩かないうちに、心が別の場所へ飛んでいることに気づきます。
昨日のあのひと言、明日のあの予定、心配ごと、妄想。
からだは歩を進めているのに、心は過去や未来をさまよっている。
でも釈迦は、それを「悪いこと」とは言いませんでした。
気づいたら、また「歩いている」にそっと戻せばいい。
飛んだことに気づいたその瞬間こそが、すでに気づきそのものだからです。
食べるとき、味わっているか
同じ教えは、食事にも及びます。
食べるとき、飲むとき、噛むとき、味わうときにも「いま食べている」と知る。
『念処経』の「正知」の教えには、前を見るとき、手足を動かすとき、衣を着るとき、寝るとき、目覚めるとき、話すとき、沈黙するときといった、日常のあらゆる動作が挙げられています。
そのなかに、食事のひとつひとつの所作も含まれているのです。
前に行くにも後ろに戻るにも、正しく知って行う。前を見るにも後ろを見るにも、正しく知って行う。手足を曲げるにも伸ばすにも、衣服を着けるにも、鉢を持つにも、食べるにも、飲むにも、噛むにも、味わうにも、正しく知って行う。
出典: 『念処経』(MN 10)「正知」の節
正しく知る、とは難しく考える必要はありません。
「いま、箸を持ち上げた」「いま、口に運んでいる」「あたたかい」「やわらかい」「ほんのり甘い」。
ただそれだけのことに、そっと心を寄せる。
それだけで、いつもの食事がまったくちがう時間に変わり始めます。
今日からできる、ふたつの実践
特別な時間を用意する必要はありません。
一日のなかに必ずある、歩くことと食べること。
そのふたつを、気づきの窓口に変えてみましょう。
まず、今日どこかで歩くとき、ほんの数十歩でかまいません。
スマートフォンをしまい、足の裏が地面に触れる感覚に気づいてみてください。
「右、左、右、左」と心のなかで唱えてもよいでしょう。
からだの重みが移っていく感覚、かかとからつま先へと地面をとらえる感触。
ただそれを知るだけで、心は自然と「いま、ここ」に戻ってきます。
つぎに、今日どこかで食べるとき、最初の三口だけでいいのです。
テレビを消し、スマートフォンを置き、ただ食べ物と向き合ってみてください。
見た目、香り、口に入れたときの温度、噛んだときの音、広がる味。
ひと口を、まるではじめて食べるもののように味わってみる。
それだけで「食べる」という行為が、気づきの時間に変わります。
どちらも、うまくできなくてかまいません。
三口目にはもう、明日の心配に戻っているかもしれません。
それでいいのです。
気づいたら、また「いま」にそっと戻る。
そのくり返しこそが、釈迦の説いた「念」の訓練そのものだからです。
日常のすべてが、禅になる
歩くこと、食べること。
どちらも特別なことではなく、だれもが毎日くり返している動作です。
だからこそ、そのひとつひとつに心を乗せるだけで、日常全体が気づきの場に変わります。
釈迦は二千五百年以上前から、そのいちばん身近な方法を教えてくれていました。
もっと日常の動作に心を込める暮らし方を知りたい方には、「毎日のルーティンを修行に変える、「今ここ」で心を込める暮らし方」もおすすめです。また、忙しさのなかで自分を見失いそうになったときは、「忙しい毎日で自分を忘れてしまうとき、ひと呼吸が連れ戻す「気づき」」が、呼吸を通じたやさしい気づきのヒントを届けてくれます。
今日の一歩と、今日のひと口が、そのままあなたの気づきの稽古になります。
どうか、力を抜いて、ただ「いま」に心を置いてみてください。