すれ違いの苦しみは、どこから生まれるのか
釈迦は人の苦しみを四つの真理にまとめました。
これを夫婦のすれ違いに重ねてみると、思いのほか明快です。
まず「苦」です。
わかってもらえない寂しさ。
言葉がすれ違うたびに胸が締めつけられる。
それはまぎれもない苦しみです。
その原因が「集」。
相手に「こうあってほしい」と求める渇愛と、「私は正しい」と握りしめる執着が重なっています。
「私の思うとおりにわかってほしい」という期待が、苦しみを深くしているのです。
この渇愛と執着がほどけた先が「滅」。
相手を変えようと力むのを手放したとき、ふっと心が軽くなる瞬間です。
そして「道」。
釈迦が示したのは、思いがけない処方箋でした。
説得でも議論でもなく、「聴く」ことだったのです。
慈悲とは、まず聴くこと
『法句経』の冒頭に、こんな言葉があります。
怨みは怨みによって鎮まらない。怨みは慈しみによって鎮まる。これはいにしえからの理である。
出典: 『法句経』第5偈(Max Müller訳, The Sacred Books of the East, Vol. X, 1881年)
言い返したい気持ちをぐっとこらえて、まず相手の言葉を受けとめる。
それは怨みの連鎖を断ち切る智慧です。
さらに初期仏典の『慈経』では、釈迦の慈悲の教えがこう伝えられています。
母がひとり子を命がけで守るように、すべての生きとし生けるものに、無量の慈しみの心を育てなさい。
出典: 『スッタニパータ』第1章第8経「慈経」(Piyadassi Thera訳, Access to Insight, 1999年)
この慈しみは、遠くの誰かにだけ向けるものではありません。
いま、となりにいるパートナーにこそ、この心で耳を傾けることができるのです。
『法句経』にはこうも説かれています。
ゴータマの弟子たちは、つねによく目覚めていて、その心は昼も夜も慈悲を喜ぶ。
出典: 『法句経』第300偈(Max Müller訳, The Sacred Books of the East, Vol. X, 1881年)
これが「聴く」を修行に変えるということ。
相手の言葉のうしろにある「ただ聴いてほしかった」という苦しみに、ただ耳を澄ませる。
それが慈悲の実践なのです。
「聴く」を修行に変える、今日の小さな実践
今日から始められる三つの稽古です。
ひとつめ。
今日一度だけ、相手の話を最後まで聴いてみてください。
反論を頭のなかで用意している自分に気づいたら、「ああ、いま言い返そうとしているな」と手をひらいて、もう一度相手の声に戻る。
それだけでじゅうぶんです。
ふたつめ。
言葉の奥にある気持ちに、そっと問いかけてみてください。
「いま、この人はどんな気持ちでこれを話しているのだろう」。
正しさの判定をはずして、ただ感じようとしてみる。
答えは出なくても、そのまなざしだけで空気が変わることがあります。
みっつめ。
すれ違いが起きたあと、まず自分を責めないでください。
すれ違いはあって当然です。
いつか笑い合える日のために、いまはただ呼吸をひとつ。
あなたの胸のなかにある慈しみは、まずあなた自身をあたためてくれます。
正しさを手放してただ聴く。
それはもっとも勇気のいる一歩かもしれません。
でも、その一歩がふたりのあいだに、あらたな糸をつむぎ始めます。
心がすさみそうな夜には「許せない思いに縛られるとき、慈悲が解き放つ心の自由」も、よろしければお読みください。言葉で傷つけてしまった日は「つい口がすべって後悔するあなたへ、慈悲から生まれる「正語」の力」もどうぞ。
よくある質問
Q. 相手の話を最後まで聴こうとしても、どうしても言い返したくなってしまいます
A. 言い返したくなるのは自然なことです。
大切なのは、その衝動を悪だと決めつけないこと。
「いま言い返したくなっているな」と気づくこと自体が、すでに修行の第一歩です。
気づいたら、もう一度相手の声にそっと意識を戻してみてください。
Q. 聴くことに徹していたら、自分の言いたいことが伝えられなくなりませんか
A. まず聴くことは、自分の意見をのみこむことではありません。
「聴く」と「伝える」は交互にあらわれるものです。
相手を受けとめる場ができてから、あらためてあなたの言葉を伝える。
順番が変わるだけで、同じ言葉でも届き方が変わってきます。
Q. パートナーがまったく話を聴いてくれないときは、どうすればいいですか
A. 相手が聴く姿勢でないときに無理に歩み寄ると、かえってあなたの心がすり減ります。
そんなときは、まずあなた自身があなたの苦しみに耳を澄ませてあげてください。
「いま私は聴いてほしいんだな」と、自分の声を自分で受けとめる。
それだけで心のつかえはやわらぎます。
そこから先の一歩は、少し落ち着いてからでかまいません。