気がつけば、いつも顔色をうかがっている
「良い嫁でいなければ」「良い婿でいなければ」。
そう思うほど、気がつけば相手の家族の顔色をうかがっています。
帰省のたび、義母のひと言が気になります。
お祝いの席では、手伝いが足りないように思えて落ち着きません。
ふと「私はあの人たちにとって、まだ部外者なのだろうか」と、胸がちくりと痛む。
その苦しさは、あなたの努力が足りないからではありません。
二千五百年以上前、釈迦は人の苦しみを見つめるとき、まず「何が苦しいのか」を確かめるところから始めました。
苦しみの正体は、役割に預けた自分の価値
ここで苦しいのは、期待に応えられない自分を責める心です。
応えられた日はほっとし、応えられなかった日は自分を責める。
その振り子のなかで、心がすり減っていきます。
では、その苦しみはどこから生まれるのでしょう。
釈迦はその源を、渇愛と執着に見ました。
家族に認められたい、愛されたいという渇き。
そして「良い嫁・良い婿でなければ」という、自分で作り上げた像への執着です。
その像にしがみつくほど、現実の自分とのずれが苦しみになります。
もう一つ、無明もあります。
物事の本当の姿を見ないことです。
「良い嫁」の基準は、相手の顔色しだいで、いくらでも動きます。
なのに、その動く物差しを、変わることのない正解と思い込んでしまう。
この思い込みが、苦しみの土台なのです。
母がひとり子を守るように、限りない慈しみを
では、どうしたらこの苦しみはほどけるのでしょう。
道しるべとなるのが、慈悲の心です。
古い経典に、こんな一節があります。
あたかも母が、命をかけて、わが子、ひとり子を守るように、すべての生きものに、限りない慈しみの心を育てよ。
出典: 『スッタニパータ』「慈しみの経」第149偈(Sn 1.8)
母は、子の出来不出来で愛を変えたりはしません。
ひとり子を、ただ無条件に守ります。
釈迦はその母の愛を、すべての生きものへ向ける心の手本にしました。
そして、この「すべての生きもの」には、あなた自身も含まれています。
「良い嫁・良い婿でなければ」と追い込む心を、母が子を抱きしめるように、あなた自身がそっと抱きしめてあげる。
それもまた、慈悲です。
まず自分を慈しむと、期待はほどけていく
まず自分を慈しむ。
すると、不思議なことに、家族への期待も少しずつほどけていきます。
完璧を演じる代わりに、できる範囲で手を貸す。
相手の顔色をうかがう代わりに、目の前のひとりとして向き合う。
それだけで、家庭という場が、少し息のしやすい場所に変わります。
今日からできる、小さな実践があります。
今夜、眠る前に、胸のあたりに手を当てて、心のなかでこう唱えてみてください。
「がんばってきたね。
それでいいんだよ」。
母が子に語りかけるように、自分に慈しみの言葉をかけるのです。
それを一日の終わりの習慣にしてみてください。
家族の期待に縛られていたのは、あなた自身の心が、その期待を握りしめていたからです。
握りしめた手を、慈悲のぬくもりでゆっくり開いていく。
その先に、ありのままのあなたでいられる居場所が、きっと待っています。
関連するお話として、「自分さえ我慢すれば」が生む苦しみ、自己犠牲のやさしい手放し方もご覧ください。役割を「完璧に演じよう」とする重圧は、完璧な親であらねばと疲れたあなたへ。中道がほどく、子育ての重圧にも通じるものがあります。
よくある質問
Q. 家族への期待を手放すのは、冷たいことではないでしょうか
A. 期待を手放すのは、相手を思いやるのをやめることではありません。
義務感ではなく、自然な思いやりから動けるようになります。
慈しみの心は、自分にも相手にも向けられます。
Q. 義理の家族とどうしても距離がつらいときは、どうすればいいですか
A. まず自分をいたわることを優先してかまいません。
無理に近づかず、できる範囲の挨拶や手伝いから始めてみてください。
心に余白ができると、関係も少しずつ和らぐことがあります。
Q. 「良い嫁・良い婿」をやめると、かえって周りから責められませんか
A. 慈悲は、周りの評価を無視することではありません。
役割を「完璧に演じる」のをやめ、できることを素直にするだけです。
そのほうが、かえって自然な信頼が育つことがあります。
今日のあなたの心に、そっと寄り添うヒントを。
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