その苦しさは、どこから来るのか
釈迦は、人が感じる苦しみには原因があると見抜きました。
完璧な親であらねばというプレッシャー。
それは「良い親」という像に執着し、その像から外れることを恐れる心から生まれます。
周りの目が気になり、SNSに流れるきらきらした子育ての姿と自分をくらべては、足りない部分ばかり数えてしまう。
でも、その「理想の親像」は、ほんとうにあなた自身が望んだものでしょうか。
それとも、いつしか外から取り込んだものではないでしょうか。
執着と比較が生むこの苦しみは、手放すことができます。
そして、その道筋こそが「中道」なのです。
まず、自分を整える。釈迦の言葉
『法句経』に、こう説かれています。
Let each man direct himself first to what is proper, then let him teach others; thus a wise man will not suffer.
出典: 『法句経』第158偈(Max Müller訳, The Sacred Books of the East, Vol. X, 1881年)
「まず自らを正しいほうへと向けなさい。
それから他人を教えなさい。
そうすれば、賢者は苦しまない」
親はだれより先に、自分自身を整えることが大切だと、釈迦は説きました。
これは「自分のことだけ考えなさい」という意味ではありません。
疲れきった心で子どもに向きあっても、その疲れは伝わってしまう。
まず自分の心に息を吹きこむこと。
それが、めぐりめぐって子どもへと届いていくのです。
弦を張りすぎていないか
釈迦はあるとき、修行に熱心すぎて燃え尽きかけていた弟子のソーナに、こう問いかけました。
「おまえは昔、琵琶の名手だったな。
弦を張りすぎたら、良い音は出るか」 「出ません」 「では、緩めすぎたらどうだ」 「それも出ません」
「ちょうど良い張り加減のとき、はじめて良い音が出るのだ。
修行もそれと同じだ」と、釈迦は説いたと伝えられます(『ソーナ経』増支部6.55)。
これは子育てにも、そのまま重なる教えです。
完璧を求めて弦を張りすぎていませんか。
張りすぎた弦は、やがて切れてしまいます。
かといって、何もかも投げ出すことではありません。
ちょうど良いあんばいを探ること。
それこそが中道です。
今日はこれだけできた、今日は笑顔が一度見られた。
そのくらいの目盛りで、自分をはかってみてください。
今日からできる、小さな中道
一日の終わりに、たった一分でできることがあります。
目を閉じて、今日の自分にこう声をかけてみてください。
「今日も、よくやったね」と。
できなかったことではなく、できたことを思い出してみる。
たとえそれが「子どもと五分だけ目を合わせて話せた」という小さなことであっても、それでよいのです。
自分をゆるすことは、子どもをゆるすことにもつながります。
完璧な親ではなく、ほどよい親でいい。
弦が張りすぎていないか、ときどき指でつまびいて音をたしかめるように、自分の心の張り具合をやさしく見つめてみてください。
肩の力が抜けたとき、ふと気づくかもしれません。
子どもはあなたの完璧さではなく、あなたのあたたかさを待っているのだと。
完璧でなければダメですか? 自分をゆるす「中道」のすすめも、あわせてお読みください。
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よくある質問
Q. 中道とは「中途半端」とは違うのですか
A. はい、違います。
中道は「ちょうど良いあんばい」を見極める智慧であり、努力を放棄することではありません。
張りすぎた弦をゆるめることは、より良い音を奏でるための調整です。
手を抜くのではなく、自分の心とからだの声に耳を澄ませることなのです。
Q. 自分をゆるすと、子どものしつけが甘くなりませんか
A. 自分をゆるすことは、すべてを見逃すこととは別ものです。
親が心に余裕をもつことで、感情的にならずに子どもと向きあえるようになります。
結果として、ぶれないしつけができるようになる傾向があります。
Q. 周りの目がどうしても気になります
A. それも自然な感情です。
釈迦は「称賛と非難はただの風である」と説きました。
まずは一日一回、「私はこれでいい」と自分に言ってみることから始めてみてください。
周りの評価より、あなたと子どものあたたかな時間のほうが、はるかに大切なものです。
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