苦しみの正体は、理想の自画像への執着
「完璧でなければ価値がない」。
この思いは、自分を「こうあるべき」という一枚の絵に閉じ込めるところから始まります。
絵のなかの自分は、いつも笑顔で、失敗せず、誰からも愛されています。
でも、生きているあなたは、疲れるし、怒るし、つまずきます。
そのたびに、絵との差を見ては「まだ足りない」と自分を責める。
これが、追い込む苦しさの正体です。
二千五百年以上前、釈迦はこの苦しみを「苦」と名づけ、その原因をたどりました。
そして見つけたのが、執着と無明です。
執着とは、心に描いた絵にしがみつく力。
無明とは、その絵をほんとうの自分だと思い込む、心の暗がりです。
「完璧な私」への追い込みも、この二つから生まれています。
「私」は、思いどおりにならない
では、その「私」とは、いったい何なのでしょう。
釈迦は鹿野苑という場所で、五人の修行者にこう説きました。
「からだは私ではない。
もしからだが私なら、こうあれ、こうなるなと、自由にできるはずだ。
だが、からだは病み、老い、思いどおりにならない」
感じることも、思うことも、意識も、みな同じです。
気分ひとつ、思いどおりにならないでしょう。
疲れているのに眠れない夜も、嫌な記憶がよみがえる昼も、あなたは経験してきました。
つまり、「私」と思っているものは、あなたの命令どおりにならない、流れてやまない川のようなものなのです。
ならば、それを「完璧にせよ」と命じること自体が、無理な話ではありませんか。
「すべてのものは私ではない」と、智慧の目で見るとき、人は苦しみから離れていく。これこそ清らかさへいたる道である。
出典: 『法句経』第279偈(Max Müller訳, The Sacred Books of the East, Vol. X, 1881年)
これは、自分を否定する教えではありません。
むしろ逆です。
「私」を一枚の絵に閉じ込めることをやめて、生きて動いているあなたを、そのまま見つめようという教えなのです。
完璧な自画像を降ろす、今日の小さな実践
絵筆を置くのは、今日からできます。
まず、自分を責めそうになったら、こう問いかけてみてください。
「これは、誰が描いた完璧の絵だろう」
きっと、それは親の期待や、社会の物差しや、昔の失敗から生まれた線です。
あなた自身が描いたものではないかもしれません。
次に、夜、一日を振り返るとき、できなかったことの代わりに、できたことを三つ数えてみてください。
完璧ではなくても、今日も朝を迎え、人と話し、少し笑った。
その一つひとつが、絵ではなく、ほんとうのあなたの歩みです。
そして、つまずいた夜は、こんな言葉を自分にかけてあげてください。
「完璧じゃなくても、私はここにいる」
絵を降ろしたその場所に、やわらかな余白が生まれます。
その余白にこそ、ほんとうのあなたは暮らしています。
完璧を手放した先に
完璧な自分を追うのをやめると、不思議と力が抜けていきます。
肩の力が抜けた分だけ、物事はゆっくりと、でも確かに前に進んでいきます。
同じ悩みを、中道の視点からほどいた記事もあります。完璧でなければダメですか? 自分をゆるす「中道」のすすめ
自分を固く定義してしまう苦しみについては、こちらもお読みください。「自分」という苦しみ、無我の智慧が解きほぐす存在のやわらかさ
あなたは、絵のなかの完璧な誰かになる必要はありません。
いま、ここにいるあなたで、すでに十分なのです。
よくある質問
Q. 「完璧な自分」を手放すと、努力しなくなりそうで怖いです
A. 手放すのは「完璧でなければ価値がない」という思い込みであって、向上心そのものではありません。
完璧の絵を降ろしても、今日できることを丁寧に積み重ねる力は、むしろ長く続きます。
Q. 自分を責める癖が抜けません
A. 癖は、長い時間をかけてできたものです。
まずは「責めている自分」に気づくことから始めてください。
気づけたその瞬間、あなたはすでに、絵から一歩離れています。
Q. 無我というと、自分が消えてしまいそうで不安です
A. 無我は「私が消える」ことではなく、「固定した私」という思い込みをほどくことです。
流れる川は、消えているのではなく、豊かに動いているのです。